こんな夜は、「俺」と読書の話でもするか Vol.1
自宅近くの酒場から爆音のナミビアンダンスミュージックが流れる24時。
現在、気温5℃。ここ、アフリカだよ?? こんなに寒いとはね。
こんな寒い夜は、今までに読んだ本の紹介でもしてみよう。
(ナミビアに来てから、だいぶ本を読んだので、その記録としても。寒い夜は別に関係ないけど。)
最近読み終わったのは、これ。太宰治は、ナミビアでたくさん読んでる。
「人間失格」が代表作になってるから、すごく暗い破滅的な作家と思われがちだけど、他の作品にはユーモアのセンスにあふれた内容も多くて、とても好きなんだ。
ユーモアあってこその太宰治だと、ある人は言ってたけど、まさにその通り。
That's exactly.
「生活の中には喜怒哀楽があって、だからそこには必ず、楽しいことや恥ずかしいこともあるし、くだらないこともある。むしろそういう、くだらなさと一見不要なことが、日常には不可欠だったりするのでしょう。
その中にポカンと浮かぶ「可哀想」、つまり悲しい思いが「あ、私も」という感想に結び付き、多くの人に共感と教訓を持たせてくれるのです。」と酒井若菜さんが言ってるよ。さすが。
この本は、250ページくらいだから、そんなに長くない。すぐ読めるよ。
Amazonの内容紹介より、
「健康道場」という風変わりな結核療養所で、迫り来る死におびえながらも、病気と闘い明るくせいいっぱい生きる少年と、彼を囲む善意の人々との交歓を、書簡形式を用いて描いた太宰文学にめずらしい明るく希望に満ちた青春小説。
覚えておきたくなる文章や言葉が、たくさん書かれてるんだ。
たとえば次のような、
- 人間には絶望ということはあり得ない。人間は、しばしば希望にあざむかれるが、しかし、また「絶望」という観念にも同様にあざむかれる事がある。
- 人間は不幸のどん底につき落とされ、ころげ廻りながらも、いつかしら一縷の希望の糸を手さぐりで捜し当てているものだ。
- 他人を責めるひとほど陰で悪い事をしているものではないのか
- 「自分の生きている事が、人に迷惑をかける。僕は余計者だ。」という意識ほどつらい思いは世の中にない。
- 死ぬも生きるも同じ様なものじゃないか。どっちにしたって同じ様につらいんだ。
- よく笑う人は、よく泣くものじゃないのか。
- 死と隣り合わせに生活している人には、生死の問題よりも、一輪の花の微笑が身に沁みる。
- 人間は死に依って完成せられる。生きているうちは、みんな未完成だ。虫や小鳥は、生きてうごいているうちは完璧だが、死んだとたんに、ただの死骸だ。完成も未完成もない、ただの無に帰する。人間はそれに較べると、まるで逆である。人間は死んでから一ばん人間らしくなる。
- 僕たちは命を羽のように軽いものとして愛しているという事だ。
- 自分の地位を最低のところに置いたつもりでいても、まだまだ底には底があるものだ。人間は所詮、自己の幻影に酔って生きているものであろうか。現実は、きびしいと思った。
どう?なんだかすごく救いがあるような気がしないかな?
日本にいる頃は、太宰治なんて純文学とかよくわからないし、カッコつけたいやつがファッションとして読んでるだけだろ?みたいなことを思ってた。
すみません、僕が完全に間違ってたよ。謝る。さすが、学校の教科書に載るわけだ。
とりあえず、これからは、「がんばれよ。」と呼びかけられたら、
大声で、「ようしきた!」答えるようにするよ。
なんてね。